僕が後で読み返したいブログ

現役大学生が運営する自分本位のブログ 暴論あり

「マス」の融解

 

  結論:共感示せども求めずの姿勢が健康に良いかもしれない

 

 「大衆」と呼ばれる層の人々ってもういないんじゃなかろうかとフンワリ考えた。徐々に融解して、せいぜい大きくてもクラスター?トライブ?というか界隈?みたいな、なんだかよくわからないけど小~中くらいのグループが点在するぐらいの状況になっているような気がしているのはすごく面白いと思う。

 例えば、音楽業界では特に2000年以降、音楽がデジタル技術の発展で簡単にコピーされてしまうようになってCDの売上が云々という媒体上の変化もあるけれども、何より娯楽の多様化(テレビだけじゃなくて、パソコンとかで色々遊べる)で、CMもしくはトレンディードラマとのタイアップ中心で「マス」に楽曲を売り込めたテレビ最強時代のやり方が通用しなくなってきているということがあるらしい。もしかしたら、ファッション上の好みとかも、触れるメディアが多様になるにつれて、個人個人を共通項で括ることがますます難しくなっている状況も実はあるのではないかという気がしている。聖子ちゃんカットが流行りまくる、みたいなことがもう無くなってきているように。

 そんなこんなで、多くの人々を覆う認識というか共通理解のようなものはどんどん薄くなってきているのではないかと思う。こういうことが起こってくると、初めましてでいきなりお互いに理解をし合ったり、共感できたりすることが「相対的に」珍しくなることもあると思うし、「コミュ障」だと自認する人が増えたのも、企業が新入社員に「コミュニケーション能力」を要求するようになったのも、希少な共感(ファボ、いいね)を集めるということに奔走するツイ廃の出現もこのような状況を反映しているような気がフワっとしている。

 バブル時代のアイドルとか好きなんだけれども、自分の二倍くらい年が離れた方とは十中八九その共通語で盛り上がれる一方、同世代なわりに現代の音楽の話で一緒に盛り上がれることって相対的に多くない気がするし、やっぱりアルとおもいます。周囲に共感を期待することが難しくなっているのかな。それでも僕は幸せになりたいから。

  

  共感、示せども求めず

          いし ゆ